短歌その形と心
馬場あき子著 日本放送出版会 1990刊
短歌を読んでないよね〜ってんで、探したらあったのがこの本。
短歌は、
たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり
たっぷりと真水を抱きてーーーうん??「水を抱く」まーま、女性が枕をだく、枕が水とイメージしよう。
昏き器をーーーー水が入った器のことだったの(^^ゞ
近江といえりーーーみずの入った器が近江=琵琶湖が真中にあるのねぇ
近江は逢う身、、、恋人に逢う前の姿
と読んでいくと、イメージが転換する、このイメージが重層的に現れる、といおもしろさがある。
もうひとつ、
「薄情」という美しき文字をゼッケンとして再逢はめやも
美しき「薄情」ーーーえっ、薄情って美しいの?
ゼッケンを胸にーーーえっ、そんなのつけるの?
再逢はめやもーーーーえっ、ゼッケンつけてだれにあうの??
全体が何かを暗示している、暗喩となっているこの歌、何故感動するのだろう。
意味をたどると、私は薄情だったよ、昔、でも、そのころ、薄情な私にであった人に、私は薄情だった、と言ってでも逢いたい。。。
こういう心情に、何故かこころの琴線がひびくのである。<<<<薄情者!!お前は(^^ゞ
山崎方代の歌 母の名は山崎けさのと申します日の暮れ方の今日の思いよ
(馬場さんの解説で、傾城阿波鳴門の「父の名は阿波の十郎兵衛、母の名は、、、」を意識しているという)うーん、そうか。イメージが重なるほうが面白いよね(^^ゞ能の詞章なんぞは、全部、和歌からの文句から、5、7,とか抜いて作ってるんじゃないかって思うときもあります(^^ゞ。
馬場さんが習ってるのは、確か、喜多流だ。
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コメント
近江は逢う身、そうかあ。
意味深なんやね。
投稿: かと | 2005.04.13 21:33
>薄情だった、と言ってでも逢いたい
琴線にふれたの?どんなぁ~~
----悲しみを見せられないからよけい悲しい
投稿: b | 2005.04.13 21:34
かとさん、急がしいのやから、こんなとこで油売ってていいの(^^ゞ
>悲しみを見せられないからよけい悲しい
そか、bさんは、悲しいも、うれしいも、みんなわらっちゃうんだよね<<!!
投稿: 悠 | 2005.04.13 22:10
>悲しみを見せられないからよけい悲しい
>悲しいも、うれしいも、みんなわらっちゃうんだよね
どっちも切ないね。
投稿: かと | 2005.04.13 23:42