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2005.06.15

短歌の作者と短歌の中の主人公

短歌を詠むとき、短歌を作ってる人と短歌の中の私の距離を感じることはあまりない。
短歌の作者=短歌の中の主人公という図式が一応頭に入ってるからだ。
(これって、日本の私小説に似ているというか、私小説が、日本の短歌・俳句の伝統の続きかもしれない)。
もともと、俳句は、連句であり、詠む人ときりはなしては考えられない。「五月雨をあつめて凉し最上川」(これは句会の芭蕉のj発句、今日はすずしいですね、って仲間への挨拶句)が、単独では「五月雨をあつめて早し最上川」となっている)

1 死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる  斉藤茂吉
  これは、作者の体験を読んだもの  短歌の作者=歌の中で添い寝し、蛙を聞いている  人=歌の中の私

2 ハイヒールで枯葉を踏めばシャンソンの流れて吾は女優になるかも 三島麻亜子
  虚空にシャンソンを聞き女優になるかもという歌の中の私は、18-22くらいの少女である。歌を読んでいる作者は、多分30を超えているであろう。とすれば、作者は、体験を、18-22の私に仮託し、18-22の女性を演出している。作者と歌の中の私は、同一視できないはずである。

3  わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る  寺山修司
  硝煙かぎつつかえる少年は、作者=寺山とは同一視できない。寺山は、鉄砲をうった少年を想像で作り出し、その少年の体験を歌っているとしか読むしかない。ここまでくると、作者=小説の主人公ではない、小説、演劇に近い。
(「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの(俵万智)も2より3かな)

でも、もともと、1もひょっとして、作者=主人公ではないかもしれない、また、2、3も、作者=主人公と読むことで2重の私をつくるだすのに成功している。

だから、どうなんだって言わないでね(^^ゞ

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コメント

自分には、観賞能力がないな、と自覚している分野です>短歌、俳句など。
それでも、悠さんの解説は、なんとなくわかりました。確かに「違い」があると思いました。

投稿: あかん隊 | 2005.06.15 22:04

なんか、自分用のまとめなんですけど、まー私もこれで、作るときのための、整理ができたつもりなんです(素人歌人)(笑)

投稿: 悠 | 2005.06.15 22:28

三島さんの歌、私はそこそこの年の女性、30~40半ば、ハイヒールの似合う年代、
風の冷たい日、コートの襟をかき寄せて枯れ葉の舞い散る石畳をヒールの音をこつこつさせながら歩く時、今ここにシャンソンが流れてきたら私はまるでフランス映画の中の女優のようだわと。
女性と男性では解釈が違うのかな。

投稿: かと | 2005.06.15 22:52

斉藤茂吉、寺山修司と並べて三島麻亜子を出していただき
大変に恐縮しております^^;

作歌した状況はかとさんの解釈にほとんど近いです。ただ、歌を発表した時点で、
それはもう私の手を離れてしまっているので、捉え方は
その人それぞれの経験や価値観からくる違いはやむを得ません。

妙齢の女性が「女優のようだわ」と、思った瞬間、もう自分の実年齢は
意識の中になく、それこそ20代の女性を演出してしまっている・・・
と考えれば、悠さんの解釈もその通りなのです。

短歌は、その行間に余韻を残し、読む人にどこまでも想像を
働かせてもらえれば、その作品は成功といえるでしょう^^

投稿: アゲハ蝶 | 2005.06.16 09:14

歌は、作者の「実」経験って読むって前提がなぜかしらあってこれから抜けるのはむつかしい。でも、そもその、歌も創作なんだから、「実」に惑わされない方がいいって、ことがいいたかっただけなんです。前衛短歌ってのは、これに、反応したものだと思ってます。
私生活詠のない塚本邦雄死亡し、私生活をさらさなかった「スミヤキストQの冒険」の作者倉橋由美子が死亡の報に接しました。合唱。

投稿: 悠 | 2005.06.16 10:32

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