1096年(永長元年)田楽さわぎ
ロックのような音楽に浮かれた老若男女が浮かれ踊り歩く、媞子内親王まですっかり
夢中だ、こまったもんだ、と、大江匡房卿が書きとめている。
大仏開眼会(742)に行われた世界音楽祭から、このときのプログラムに載っていた散楽、声明が、古代から中世へなだれ込んでゆく際、謡曲、平曲(琵琶)へながれてゆく。
世界音楽祭のときの雅楽は、中国を模倣したもの、韓国を模倣したものが作られるが(このころってひょうとすると、ジャアパンは植民地)、パトロンの宮廷にお金がなくなりすたれてゆく。
能で演じられる「翁」(おきな)は、当時、田んぼの泥の中で、じいさん、ばーさんが、ラブシーンのまねっこをして、豊作が祈った。現在の翁は、こんなのは、ないが、しっぽに、舞のなかに種まきのしぐさが残っている。
これが、「おじいさん、どこからきなすった」、翁「わしは、お前たちの先祖のかっこうをしているが、じつは、、、、」という夢幻能にはってんしてゆく。卒塔婆に座るばばあに、僧が「ばーっちゃん、罰があたるぜ」って会話の後「実はわしは、小野の小町じゃ」って消えて、後半美しい女性姿であらわれる「卒塔婆小町」ってのに発展しますねん。
その田遊びから、能・狂言に発展してゆく狭間に、民衆のエネルギーの表現として田楽さわぎがある。
「わたしの日本音楽史」林光 晶文社 1983-3-10
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