« 外を歩くのにいい季節 | トップページ | 2007-5-28日常 »

2007.05.27

平田オリザ@メモ

平田オリザの書いたもの、芝居をみてのメモなんだけど、彼が追求してるのは、
  日本での対話の可能性があるのか。
  いかにすれば、対話は可能か。
  いかにして私らを取り巻いている状況を認識できるのか。
こういうことかな〜と。

日本の戯曲でドラマがない、ってことはよくいわれている、しかし、そもそも、日本人同士がそもそも対話がなく、家庭内で延々とディスカッションするってなことがない。(もし、そんなことになれば、リアルではなくなる)。

公共の場、たとえば、美術館、電車の中とかでの対話は、多少、ディスカッションがありうる。
で、延々とつづくのではなく、きれぎれと、登場人物が、つぎつぎと入れ替わりながら、なら、ディスカッションがつづく。
日本の言葉も、明晰になりうる。

登場人物、時代設定、たとえば、「ソウル1919」戦前、植民地韓国に住む日本人家族を設定することによって、この家族の日常の意識をあぶり出すことによて、日本人尾民族意識を舞台の外に暗示する。こういうやり方で、状況を認識させる。「東京ノート」で、西欧で戦争が起こってても、きっと、こういう風に、おいらたちは、それには関心を寄せないんだよなとか。

これで、状況の認識が可能となる。

ふーぅ、たぶん、こんなことなんだろう。

ps 「ソウル1929」なんて芝居はフランスで、演じられている。
フランスは、60年代アルジェ独立運動(見方によっては、運動者はテロリストにみえるかもしれない)(これをサルトル他知識人が支持した)。
こんなところが、フランスでもうける理由なんだろうな。

ただ、平田オリザのお芝居には、カタルシスはありません(^^)

|

« 外を歩くのにいい季節 | トップページ | 2007-5-28日常 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 外を歩くのにいい季節 | トップページ | 2007-5-28日常 »