身体性の教育@トークセッション
それぞれの話で面白かったところ
内田さん、「舞台に出たとき、自我が、観られている、頼るのは自分だけだと、
だんだん小さくなる。
理想的なのは、出たとたん、自我がとけだして、客席まで、ぬるぬるぬるぬる
とでてゆく、そんな舞台がいいのではないか」
島崎さん「バレーの練習では、腕なら腕の動きがあるが、腕は、体全体の表現
として、腕が出てるにすぎない、ここが素人が誤りやすいところで、腕だけ動
かす」腕に意識をおくと、そこしかうごかない。体全体が腕に集中する、そう
いう身体をつくらなければならない。
甲野さん「こうやって、腕をあげられないようにもたれる、なんとかしようと
しても、腕はあがらない、これは腕を意識するから」「ところが、もたれたと
ころに、しずくが落ちた、あれ、と、上を見上げるように意識するおtあがる」
これは実演つきでした。
昔、野口三千三さんの、野口体操で、「腹筋にちからをいれてあがろうとする
のではなく、おへそが瞬きすると意識すれば体があがる」ってのを、野口さん
の弟子に見せてもらったことがあるが、これと近い。
これに触発されて、内田さんが「矛盾というのを、私たちはとらえそこなった
のではないか」「最強の矛があるから、それに耐えられる盾を作ろうとする」
「最強の盾があるからそれをやぶろうとする矛をつくろうとする」
「そういう運動がある」
「フロイトが、最愛の人に死なれたあと、罪悪感がのこって、メランコリーに
なる例をあげている」「でも、それは、罪悪感を打ち消す、なくなった人との
楽しい時間を思い出す、という風に作用する」そういうものではないか、と述
べられていた。
島崎さん「大学でダンスを教えるのは、クラシックは、18才で、もうできあ
がってなければならない、コンテンポラリーなら可能で身体で表現するっての
なら教えられるかな」、と。この方、高校時代、漁師の網元にあづけられて漁
師の経験あり。
メモ@いつかかきます。コレテンパラリーダンスと、すし職人、そば打ち。
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コメント
あ~!これ聴きに行こうと予定してたんですが、急遽行けなくなったんです。良いなぁ。
投稿: maki | 2007.07.30 05:57
■makiさん、おはよう。
トークセッションは、次回は11月17日です。次回は、おいらいけそうにないですけど。甲野さん、不思議なひとでしたよ。
投稿: 悠 | 2007.07.30 06:14
興味深いお話ですね。
私の大好きなコンテンポラリーダンサー、山田せつ子さんの『速度の花』も読んでみてください。
「前略
ダンスがやってこようとするときには、小さな絶句が起こり、白い時間がうまれる。
これはひとつのサインだ。絶句の一瞬を通過すると、からだは密度を高め、あいまいに譲り合っていた場所はそれぞれに輪郭を明確にして私の方にやってくる。
この手首が今日のダンスの発祥の地だ。からだがダンスのほうにジャンプする。
ダンスは一瞬未来から、ココに落ちてくる。
それはバスケットボールのゴールの下にすばやく入って、落ちてくるボールを瞬時にキャッチする感覚に似ている。
後略」
(引用しました。原文は一段落なのですが、入れさせていただいています。)
投稿: お絵描きぺんぎん | 2007.07.30 07:35
■お絵描きぺんぎんさん、こんばんは。
ご本の紹介ありがとうございます。別宅も興味深く読ませていただきました。
甲野さんも、腕だけで、マッチョになんとかしようとしてもだめで、体全体の信任をえて、腕が体を代表して、って感じにならないと、と。島崎さんは、腕だけの場合と、体全体で腕が動いてとこ実演して下さいました。
腕がつながってなくて、肩と腕が、人形のように、糸でつながってるとき、腕を体全体で動かすような感じとも。
身体をつかってる人の言葉は、気になります。
おいら、最近、仕舞さぼりぎみなんで、また、身を入れてがんばろうかと(笑)。
投稿: 悠 | 2007.07.30 20:06