サド侯爵夫人〜その2
原作者三島由紀夫は、法学部で団藤刑訴法に小説の作法のヒントを得たとどこかで書いていた。
団藤さんは、刑事事件の真実は、ほんとうにあったかどうかではなく、法廷に現れてくる証拠からだんだんと、訴訟法的に真実が形成されてゆく、ってなもんだった(おいらの記憶がただしければですけど)。
このサドって、登場人物のそれぞれが語る「サド侯爵」がうかびあがってくるという仕掛けは、この理論をおもいださせる。
貞淑な夫人@ルネをもち、肉体の快楽を追求する性癖をもつシミアーヌ男爵夫人との相性はよく、普通の女性@アンヌとも寝るサド侯爵。
宗教心厚い友もいる。 世話焼きの妻の母もいる。
これって、現代でいえば、おぼっちゃんで、会社ではよきサラリーマン、特殊な性癖はSMクラブで満たし、箱入り娘の妻とは、それなりに、その他にときどき浮気をってな感じになるのかな??
この現代の「サド」なら、どこにでも、いそうな気がしますけどね。
シミアーヌ男爵夫人なんて、この間観た映画「sex&the city」の中にも「女体盛」で、若い夫を迎える妻がでてましたし。
芝居にあって、現在に無いのは、きっと宗教なんですね。ハルキさんの小説、現在の宗教をさがしてるんではないか、と、芝居観ながらのかってな感想でした。
| 固定リンク
コメント
>これって、現代でいえば、おぼちゃんで、特殊な性癖はSMクラブで満たし、箱入り娘の妻とは、それなりに、その他にときどき浮気をってな感じになるのかな??
三島が描いたサド侯爵は「性愛のキリスト」というイメージもあったように思うのですが。
うわべの社会生活に抑圧された人間の本来の「性愛」を解放するためのキリスト。
その殉教者がシミアーヌ男爵夫人なのではないでしょうか?
ルネはそのキリストに信仰を捧げながらも・・・俗人となり果てた(とルネには思える)サド侯爵に絶望し、別れていく・・・のだと、初めて観た時は納得できたのですけれどね。
最初に観た『サド侯爵夫人』のルネは大輝ゆうさん、モントルイユ夫人が峰さを理さん。
最近観たのがルネ、新妻聖子さん、モントルイユ夫人が剣幸さん。
どちらも実質的な主演はモントルイユ夫人だなと思いました。
ちなみに初演はルネが丹阿弥谷津子さん、モントルイユ夫人が南美江さんだったそうです。
サドのものは「悪徳の栄え」しか読んだことはありませんが、単なるピカレスク小説とは違う「悪魔的な正義」を感じた覚えがあります。
善なることの悪、悪であることの正義・・・と言ったらいいのでしょうか?
非常に抽象的な非現実的な衒学的な小説でした。
若かったから理解出来た部分もあるように思います。
今なら、ちっともわからないかも・・・です。
投稿: お絵描きぺんぎん | 2008.11.07 13:23
□お絵描きぺんぎん、こんばんは。
聖があるから、これに対するアンチー聖も、「聖霊」を帯びるのですよね。聖=宗教=タブーがあるところでは、このタブーを破る人もその破壊度がおおきければおおきいほどマイナスの極限ってな「聖」を帯びるのだとおもいます。シミアーヌ男爵夫人さんも、サドも。
で、タブーがない現在では、きっと、感想にかいたような感じになるのではないかと(^^;)
三幕目で、ルネが「悪徳の栄え」を読んで、それまでのサドに対する考えをあらためる場面がでてくるのですよ。
ま、俗化したサドもでてくるのですけど。
この「悪徳の栄え」を「サドが世界をつくった」「自分が世界をつくった」みたいな感じがするーだから、自分は、もうサドにはついていけない、ってな感じだったのですよ。ここがうまく理解できなくて、三幕目はわかりにくかったです。
投稿: 悠 | 2008.11.07 17:53
□お絵描きぺんぎん、こんばんは。
>モントルイユ夫人
って、宗教=制度=システムでもあった時代に、この制度を受け持ってたのかな、と。
敬虔でもなく、制度=システム=俗(宗教を欠く)の信奉者かな、私のなかのイメージは。
ハルキさんは、宗教をさがすのではなく、宗教がないときどういきたらいいのかってのを書かれてるので、世界で共感をえてるのかな〜と。
投稿: 悠 | 2008.11.07 18:14